ガイコクゴとキョーイク

夕食を作りながらテレビの討論番組を見ていたら、学校教育と英語について話してたけど、気になることがちらほら。

その時の要旨は「小学校で英語の授業を義務化する」やらそんな感じのことだったと思うけど、あんま覚えてないや。でも、何かすっきりしないので、ちょっと考えてみた。 この番組では、実際の現場に立つ教育関係者と芸能人(保護者というか第三者的な立場)での討論だったんだけど。教育者サイドでは、国際感覚に早い段階でという意見と、早い段階での英語の摺り込みはちょっとという意見。保護者サイドでも同じような意見の別れかた。 細かくは面倒なので省くけども、結局は「早い段階でも構わないけども、それなりの教育ができるか」という感じになったかと思う(多分)。

自分はどちらかというと義務化には多少批判的。それ以前に中高の英語をどうにかしてくれと思う。というより、英語を一つのコミニュケーションツールとしてではなく、言語のユニークさ面白さとして体験させてあげてほしい。 言葉や言語というものは、僕にはコミュニケーションとしての見え方よりも、人が考えたり感じたことを何かしらに形容して。それが、また言葉に産まれ変ったり、自分自身とネイティブに関わっている何かしらの信号ではないか、とも思う。

外国語というのも、その名が示すとうりに外国の言葉のこと。外国語を学ぶと言うことが、ただ話せるだけにならないように(もちろん、話せれば充分かもしれない)。なんで、その地域でその言語が使われているのか、なんで、その言語の単語はあの言語の単語と似ているのか。もっと言えば、なんで自分の話す言葉と別の言葉を話す人達がいるのか。そんなハテナを体でドキドキするために外国語を学ぶというスタンスも、あっていいと思う。 僕が祈るのは、言葉が単なる道具にならないように、ということと、自分の体のネイティブな(感覚的な器官としての)言語はしっかり養えるようにということ。

英語云々にしても、言語云々にしても、それを使う時点では、まぁ、その人の勝手になるとは思う。けども、それらが体に染み込む時期は、もうちょっと考えてもいいのかなと思う。というのも、僕の友人にもバイリンガル(大体が小学校の時期を海外でという人だけど)っちゅーのが何人かいたけれど、話していると時々、日本語の感覚が理解できないことがあった。 何かの単語(何だっけ?忘れちゃったけど)の感覚がわからないと言うので、説明すると「へ~、面白いね」と。僕には何が面白いのかイマイチわからなかったけど、そのとき、「あー、何か違う」とぼんやり思っていたけど。今は、こうした違いがそのままアイデンチチーの違いというか、そのまま人間の感覚としての違いかも、と思うことが多い。 要は「言語は便宜的なだけじゃない」ってことかな。例えば、日本語では「魚」英語では「fish」。意味的には同じものを差しているんだけど、やはり感覚的には別のものなのかもしれない。人に依るものなので、説明するのが難しいけれど、日本人が「魚」と聞いて思い浮かべるのがマグロやサンマ、アジ、時にはイカや「さかなくん」かもしれない。英語圏の人間が「fish」と聞けば…何かな、分らないけれど、サーモンとか鱈、マスとかかな?カジキとかクジラもかな?。結構差がつくと思うけれど、こうしたローカルな感覚も含めての「便宜的」だと思う。

言葉を覚える時期に、その地域や環境の影響を受けるのは間違いないと思う。ただ、日本で英語の勉強するぶんには、どうなのかは、全然わからない。まぁ、ここに書くことではないね。

段々まとまりがつかなくなってきたので、まとめると。 指導要項がコロコロ変って、ゆとり教育のおかげで平日授業がギュウギュウになって、絵本みたいな教科書。それでも子供は柔軟だからまだいいけど、教師も余計な負担を背負うし、「大人の都合」がまた始まるねぇ。

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